文化的処方について
人と文化、地域のつながりを育む
みなさんは「文化的処方」という言葉を聞いたことがありますか?
「処方」と聞くと、病院でもらう薬を思い浮かべる方が多いかもしれません。でも、私たちの心や社会のつながりに効く「処方」もあるのです。それが、文化芸術を通じた「文化的処方」という新しいアプローチです。
文化的処方とは
文化的処方とは、人々が芸術や創造的な活動、文化施設や文化的に意味のある場所などと出会い、関わる機会をつくることで、健康とウェルビーイングを支えていく実践です。一人ひとりが自分の関心や希望に応じて文化との関わりを選び取れるよう、市民や地域のコミュニティが主体的に参画し、地域にある文化資源や人々をつなぎ、新たな活動や関係性を育みながら、誰もが文化と関わり、健やかに暮らしていける環境をつくっていくことを目指しています。医療や福祉との連携も、そうした地域の仕組みを支える大切な方法の一つです。
文化的処方の考え方を、約2分の動画でご紹介します。
こうした考え方は、日本の文化政策ともつながっています。2017年に改正された文化芸術基本法では、文化芸術を創造し、享受することは「人々の生まれながらの権利」であるとされています1。文化にふれ、関わることは、特別な誰かのためのものではなく、すべての人に開かれているべきものです。文化的処方は、その権利を一人ひとりの暮らしの中で実現していくための取り組みでもあります。
文化芸術にふれることは、私たちにさまざまな経験をもたらします。美しいものに心を動かされたり、思いがけない発見に驚いたり、何かをつくることに夢中になったり。時には、作品を通して自分の気持ちに気づいたり、忘れていた記憶がよみがえったりすることもあります。ワクワクする気持ちや「やってみたい」という好奇心に導かれ、自分自身の感覚や想像力と向き合う。そうした時間は、それ自体が豊かな経験であると同時に、心身の健康やウェルビーイングを支える「処方」にもなり得るのです。近年は、こうした文化芸術と健康の関係についての研究も進んでいます。世界保健機関(WHO)欧州地域事務局は2019年、3,000件を超える研究をもとに、芸術が健康の増進や病気の予防、治療に役割を果たしうることを報告しました2。
これまで健康を支えるものとして、食事、睡眠、運動が重視されてきました。近年では、それらに加えて、人や社会との「つながり」が健康に大きく関わっていることがわかってきています。望まない孤独や社会的孤立は、心身の健康にさまざまな影響を及ぼし、死亡リスクを高めることも指摘されています3。文化的処方が大切にしているのも、こうした「つながり」です。文化を通じて人々が新たなつながりや居場所を見つけ、育んでいくことは、望まない孤独や社会的孤立の予防や軽減にもつながると考えています。ただし、それは人とのつながりだけを意味するものではありません。文化芸術を通じて、自分の感情や記憶にふれ、自分自身への理解を深めることもできます。また、作品や文化的な場所を通して、地域の歴史や、異なる時代を生きた人々の経験と出会うこともできます。文化芸術には、自分自身とのつながり、他者とのつながり、そして自分が生きる社会や世界とのつながりを育む力があるのです。
そもそも文化芸術は、人々の暮らしやコミュニティの中で育まれてきたものです。人々は歌い、踊り、絵を描き、ものをつくり、物語を語り継ぐことで、喜びや悲しみ、願いや記憶を分かち合ってきました。文化芸術は、単に生活を彩るものではなく、人々が世界を理解し、他者と関係を結び、ともに生きていくための営みでもあったのです。こうした人類の長い歴史を振り返ると、文化芸術と健康やウェルビーイングとの関係は、決して新しいものではないことに気づかされます。文化的処方は、私たちの暮らしの中に本来あった文化の力を、現代の社会で改めて生かそうとする試みともいえるでしょう。
文化とのつながりを支える仕組み
文化的処方は、こうした文化との出会いや関わりを、一人ひとりの経験にとどめず、市民や地域のコミュニティの参画を通じて支え、その機会を広げていく実践でもあります。そこでは、市民は単に活動に参加するだけでなく、自らの関心や経験を生かし、他の人々とともに新たな活動や関係性を生み出していく主体にもなります。その特徴の一つは、誰かから勧められるだけでなく、自分自身の関心や希望に応じて、文化との関わりを選び取ることができる点です。例えば、気持ちを切り替えたいときに美術館に出かけたり、誰かと一緒に何かを楽しみたいときに地域の文化活動に参加したり。自分にとって何が心地よく、何に心を動かされるのかを感じ取り、自ら選ぶことも、自分自身をケアする方法になり得ます。
一方で、文化と関わりたいと思っていても、何をしたらよいかわからなかったり、一人では参加しづらかったりすることもあります。そうした人々が文化との接点を見つけるのを支える方法の一つに、「文化リンクワーカー」と呼ばれるつなぎ手の存在があります。文化リンクワーカーは、一人ひとりが大切にしていることや好きなこと、これまでの経験などに耳を傾けながら、その人に合った文化的な活動との出会いを支えていきます。「最近は体調がすぐれず、外に出る機会が減ってしまったけれど、昔、美術館に行ったときは楽しかった」。そんな話を聞いたら、文化リンクワーカーは「美術館で絵を見ながら、誰かとおしゃべりするプログラムに参加してみませんか」と提案するかもしれません。実際に参加してみると、作品を見る楽しさを思い出したり、誰かとの会話が生まれたり、また出かけてみたいという気持ちが湧いてきたりすることもあります。美術館に限らず、地域の人たちと音楽を楽しむことや、創作活動を通じて新しい仲間と出会うことも、選択肢の一つです。
文化的処方が大切にしているのは、健康上の課題や支援の必要性によって人々を区別するのではなく、誰もが一人の市民として、自分の関心から文化と関われることです。文化を通じた出会いやつながりは、支援する人とされる人という固定的な関係を超えて、互いに関わり、支え合う関係を育む可能性も持っています。
大切なのは、単に活動を紹介して参加を促すことではありません。一人ひとりの関心や希望を尊重し、その人にとって意味のある経験につながるように支えることです。ただ、自分で選ぶことができるというだけでは、誰もが実際に文化とのつながりを持てるとは限りません。経済的な事情や移動の難しさ、情報の届きにくさ、施設やプログラムにある物理的・心理的なバリアなどによって、選択肢が限られてしまうこともあります。だからこそ、文化施設や地域の人々が連携し、誰もが安心して参加し、関わり続けられる環境を整えていく必要があります。文化的処方は、人と文化をつなぐだけではなく、市民やコミュニティが主体的に関わりながら、一人ひとりが文化と関われる地域の仕組みや、人々の関係性そのものを育んでいく取り組みなのです。
日本には、美術館や博物館をはじめ多くの文化施設があり、美術作品や歴史資料、自然史資料など、さまざまなコレクションが大切に受け継がれています。文化的処方の視点からこうしたコレクションを見つめ直すと、これまでとは違った可能性が見えてきます。一つの作品が誰かの記憶を呼び起こしたり、地域の歴史を伝える資料が人々の会話を生み出したりすることもあるでしょう。自分とは異なる時代や場所を生きた人々の表現にふれることで、世界の見え方が変わることもあります。ミュージアムのコレクションは、保存し、鑑賞する対象であるだけでなく、人々が自分自身や他者、社会との関係を見つめ直すきっかけにもなるのです。
これまで、地域の文化資源を健康やウェルビーイングの視点から捉える機会は、それほど多くはありませんでした。しかし、誰もが主体的に文化と関わることのできる環境を整え、地域のさまざまな人々とともにその可能性を育んでいけば、美術館や博物館をはじめとする文化施設が、人々の暮らしを支える身近な社会基盤として、その役割をさらに広げていくことができるはずです。
文化的処方がひらく未来
現代の私たちは、多くの人や情報に囲まれて暮らしています。それでも、ふと孤独を感じたり、自分の居場所に不安を覚えたりすることがあるかもしれません。そんなとき、少し日常から離れて、好きな音楽に耳を傾けたり、心を動かされる作品に出会ったり、誰かと一緒に何かをつくったりすることが、自分自身や世界とのつながりを取り戻すきっかけになることがあります。文化にふれることは、それ自体が人間の生に深く根ざした、大切な営みです。そして、その経験には、人々の心身を支え、他者との関係を育み、社会の中に新たなつながりを生み出していく力があります。
美術館や博物館、そして地域に息づくさまざまな文化を、市民やコミュニティとともに、人々の暮らしを支える共有の資源として育んでいくこと。その先に、一人ひとりが自分らしく、創造的に、健やかに生きられる社会がひらかれていくのではないでしょうか。
1. 文化芸術基本法(平成13年法律第148号、平成29年改正)第2条第3項。
2. Fancourt D, Finn S. What is the evidence on the role of the arts in improving health and well-being? A scoping review. WHO Regional Office for Europe, 2019(Health Evidence Network synthesis report 67).
3. Holt-Lunstad J, Smith TB, Baker M, Harris T, Stephenson D. Loneliness and social isolation as risk factors for mortality: A meta-analytic review. Perspectives on Psychological Science. 2015;10(2):227–237.