アートと社会とウェルビーングを
訪ねるウェブマガジン

アートで健康格差を解消する英国の試み
―マンチェスター都市圏におけるクリエイティブ・ヘルス―【前編】 

| [写真提供]ジュリー マッカーシー [文]ああともTODAY編集部  

人々の健康とウェルビーイングに、創造的なアプローチや活動で取り組む「クリエイティブ・ヘルス」。イギリス・マンチェスター都市圏では、医療・健康の格差に対し、「クリエイティブ・ヘルス」と呼ばれるアプローチを推し進めています。医師が創造的なプログラムを処方したり、オペラ・カンパニーが呼吸器疾患患者に歌のプログラムを提供したりと、文化プログラムが医療の一部になっています。なぜ、医療に芸術が取り入れられているのでしょうか。マンチェスター都市圏で世界初のクリエイティブ・ヘルス戦略を主導するジュリー・マッカーシーさんに、国立アートリサーチセンター主任研究員の稲庭彩和子が、草の根活動から自治体の政策への発展、現場での実践、そして今後の展望について伺いました。前編をお送りします。

インタビューに答えてくれたジュリー・マッカーシーさん

アートで描く健康の未来

稲庭 最初に、マッカーシーさんは現在マンチェスター都市圏でこの「クリエイティブ・ヘルス」の先導役をされていると思いますが、そのお仕事や役割について教えていただけますか。

マッカーシー クリエイティブ・ヘルス戦略リーダー(Creative Health Strategic Lead)という、英国でも聞きなれない肩書きの仕事をしています。私は2つの組織で働いていて、一つがマンチェスター都市圏広域連合(Greater Manchester Combined Authority)という自治体。もう一つがNHS GM(NHS Greater Manchester:マンチェスター都市圏地域医療サービス)という統合医療組織です。

マンチェスター都市圏について概要を説明しましょう。人口は295万人で、イギリスの中でも人口密度の高い地域です。都市圏の中で、マンチェスター市が最大都市ですが、全部で10の地方自治体で構成されており、住民の顔ぶれもとても多様です。

マンチェスター都市圏はイギリスの中でも医療面で最も不平等が大きい地域です。これはケアへのアクセスの面でも、最終的な人々の健康状態の面でも本来は回避ができるはずの不平等で、貧困や差別、そして機会の欠如といった要因により引き起こされます。これは未就学児から高齢者まですべての年齢層に影響しています。

再開発が進むグレーターマンチェスター中心部の景観 

2022年に始まったクリエイティブ・ヘルス戦略は、文化、つまりアートや創造的な行為が、その人が置かれている状況に関わらず、最も良いかたちで「生きること」をサポートできるということを打ち出しています。こういった医療の不平等を完全になくすことは容易ではありませんし、決して文化のみによって達成できるものではありませんが、そのために私たちは最大限働くことができると考えています。医療だけではなく社会福祉や地域社会、市民、そして文化センターとパートナーシップを組んで取り組んでいます。

クリエイティブ・ヘルスへの取り組みは、医療の不平等の解消をめざす「リブウェル(Live Well:健やかな生活プログラム)」という、住民たちが必要な支援を自分の地元で受けられ、より良い生き方ができるようにするための、マンチェスター都市圏としての公約の一環です。これは高齢者や特定の医療状態の人だけでなく、すべての人を対象としています。これは、行政だけが主導するのではなく、地域社会が主体的に関わり、責任を持って取り組むという参加型・協働型のアプローチを採用しています。「リブウェル」はマンチェスター都市圏のAndy Burnham市長の、公共交通と教育と並ぶ主要な優先事項の一つです。

一冊の報告書が医療を変えた

Lime Artによる病院スタッフのウェルビーイング・セッション「Create+

稲庭 マンチェスター都市圏では、クリエイティブ・ヘルス戦略が本格的に始まった2022年より前から「エイジフレンドリー」と呼ばれる、高齢者が身体的、精神的、そして社会的によりいきいきする都市となる政策のなかで文化活動が推進されてきた背景があって、それが全世代に向けたこのクリエイティブ・ヘルスの政策の礎の一つになったと聞いています。クリエイティブ・ヘルスという考え方はどのように形成されていったのでしょうか。というのも、日本では「クリエイティブ・ヘルス」はこれからの分野なので。

マッカーシー マンチェスター都市圏では、以前から文化が人々の健康やウェルビーイングにおいて役割を果たすことは徐々に認識されてはいました。ただ、それが戦略や自治体の政策として進められることはありませんでした。潮目が変わったのは、2017年にイギリスの芸術・健康・ウェルビーイングに関するAPPG(超党派議員連盟:All-Party Parliamentary Group on Arts, Health and Wellbeing)が、ヘルスとウェルビーイングに関する調査報告書『クリエイティブ・ヘルス:健康とウェルビーイングに寄与する芸術活動』を発表したことです。この研究報告書は科学的根拠を示すことで、それまで個別に行われていた実践活動に公的な認知と正当性を与えるターニングポイントとなりました。

リンク:https://aatomo.jp/artistic-activities-health-wellbeing/

現在も国レベルの政策としてはこういった取り組みは行われていませんが、一方で全国の地方自治体や保健所で働くクリエイティブ・ヘルス提唱者のネットワークは存在し、それがNational Centre for Creative Healthなどのセクター支援組織によって支えられています。マンチェスター都市圏が初めてのクリエイティブ・ヘルス戦略を作り上げることができた裏には、生活を文化の力によって変えられる、そう信じる多くの地元の専門家や情熱的な人々との共創のプロセスがありました。

Lime Artによる病院スタッフのウェルビーイング・セッション「Create+

稲庭 報告書が広く読まれ、全国に広がったわけですね。議員連の報告書が大きな社会的インパクトをつくった成功要因はどのようなところにあったのでしょう?

マッカーシー 大きく三つの要因があるんです。一つ目は、リブウェル戦略にクリエイティブ・ヘルスがとてもよくフィットするということです。クリエイティブ・ヘルスは多くのセクターや関係者がいて、様々な優先事項が競合する中で、これ自体を重要だと認識してもらうのは難しいのです。しかし、リブウェルのような既存の優先事項、例えば高齢化対策であるエイジウェル(Age Well:健やかに年齢を重ねる)などに貢献できることを示せたことが重要でした。

二つ目はリソース(資源)の面です。クリエイティブ・ヘルスによって、これまで自治体や医療に貢献しないと思われていた文化セクターを、医療に寄与するものとして取り込むことができました。イギリスでは、医療サービスを提供するための人材が不足しており、医療サービスによっては、提供までに高度のストレスや疾病を生じさせてしまう部分もあります。文化セクターの専門性と能力を活用した創造的な医療プログラムを提供できるようになれば、活用可能な人材が増え、よりよい医療を提供できるようになります。また、文化セクターを通じてアーツ・カウンシル・イングランド(芸術文化活動への資金提供や支援を行う公的機関)などからの資金を医療分野に活用することができるという点も、医療関係者にとって魅力的です。

三つ目は、イギリスではクリエイティブ・ヘルスが歴史的に情熱を持った人たちによって推進され、関係者が協同して組織化して国レベルでのネットワークを構築していることです。国内の責任者が連携し、課題への解決方法や手段を共有しています。これによって、イギリス全体での取り組みに互いに貢献し合っています。

Arc, Stockportにおける、創造性を通じたメンタルヘルス支援

稲庭 マッカーシーさんは現場の状況を詳しく理解しながら、一方で政策に反映させるという役割をされているのではないかと思います。そのような役割は大変貴重だと思うと同時に、難しさもあるのではないかと想像します。

マッカーシー おっしゃる通りで、そういう意味では日頃働いていると孤軍奮闘していると感じることもありますよ(笑)。イギリスでこういった活動に従事している人は少なく、政策面では主流の取り組みではないので。……だからこそネットワークを組んで国レベルでお互いを励まし合いながら活動しています。

また、国レベルでのネットワークを持つことは、政治のリーダーにこういった政策に目を向けさせる上でも非常に重要です。当然、他にもいろいろな政策面での優先事項があるため大変だと思います。しかし、経済的に困難な状況にあり、様々な課題がある中で、そういった時こそイノベーションや新しいアプローチが進められるようになる可能性もあると考えています。これは、イギリスは日本と似た状況かもしれませんね。

稲庭 マッカーシーさんのお話を伺っていると、いろいろな場所で情熱を持って活動をしている人たちの小さな流れが、政策に結実していったことがよくわかります。現在、日本ではまずは活動の一歩をふみだし、共創の機運を全国に広げていく段階です。日本全国にこうしたクリエイティブ・ヘルスのような活動をしたいと思って活動している人がいるのですが、まだ大きな動きになっていないという状態です。

報告書がもたらした実際の変化

「ブリング・オン・ザ・ブラス」プロジェクト(オールド・トラフォード地区)。コロナ禍で孤立したコミュニティの人々に音楽を届けるため、カラフルな軍服風の衣装を着たブラスバンドが住宅街を練り歩いた。

稲庭 クリエイティブ・ヘルスの調査報告書は、政策が飛躍的に発展する契機となったとのことですが、この分野の活動の認知度の向上、活動の活発化、組織化の促進、予算の確保、専門職のポスト設置などの具体的な動きにつながったのでしょうか?

マッカーシー そうですね。APPGの報告書の役割は、それまで各地に存在していた草の根の活動に政治的な正当性を与えることだったと思います。この報告書がエビデンスを示したことで、これらの活動が公的に認められ、自治体の正式な戦略や政策として採用される道が開かれたのです。つまり、個別に行われていた実践活動が公式な政策として認知される橋渡しの役割を果たしたと言えるでしょう。

稲庭 そうした流れがあって、マンチェスター都市圏ではイギリスの中でも先進的にこれに取り組んだのですね。そのなかでも、まさにマッカーシーさんのような方々が様々な活動を広げてきた結果、マンチェスターが特徴的な政策を実施しているということだと思いますが。

マッカーシー たしかにマンチェスター都市圏の例は広域都市圏の自治体としては初めての取り組みでした。でも今では唯一のものではなくなって、イギリスではどんどん他の広域都市圏でもクリエイティブ・ヘルスの戦略を独自に策定しています。投資の規模も著しく伸びており、私が仕事を始めたときの限られた予算と比べるとうらやましく感じるほどですよ(笑)。

優良なクリエイティブ・ヘルスの取り組みはマンチェスター都市圏にしかない、とは思いませんが、「政策として取り組んだ最初の自治体」であることは事実です。しかし、この「最初であった」という事実も、もともとマンチェスター都市圏に伝統的に存在していた様々な組織や草の根レベルでの活動の上に成り立っていると思いますね。